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オッカムの剃刀とは? ケチの原理をわかりやすく説明

かみそり

オッカムの剃刀という言葉を聞いたことがありますか?

オッカムの剃刀は、ものごとを考えるときの指針のひとつで「いらないものは剃刀でそぎ落としてしまえ」というもので、「ケチの原理」とも呼ばれています。

その後、科学理論の指針ともなったオッカムの剃刀についてわかりやすく説明してみます。

目次

オッカムの剃刀とはどんなものか

オッカムの剃刀は、14世紀の哲学者・神学者 “オッカム” が唱えたもので「現象を説明するための仮説は少なくすべき」というものです。

「必要のない仮説は剃刀でそぎ落として捨てまえ」といった意味で、「ケチの原理」「節約の原理」とも呼ばれています。

思考を節約して、いらないことに頭を使わないで済まそうという意味合いもあってそう呼ばれています。

オッカムという名前の由来

オッカムは、イングランドのオッカム村で生まれたことから、”オッカムのウィリアム” と出身地つきで呼ばれていました。

それが、出身地の ”オッカム” の方で呼ばれることが多くなったという変わった例です。

オッカムの剃刀の例

オッカムの剃刀についてわかりやすくするために具体例を示して説明してみます。

オッカムは「惑星が動き続けているのは、天使が押しているからである」と説明されていた時代に「天使の仮説は必要なのか?」と問いかけました。

「天使が押している」のなら、神様がそうさせていることが前提です。

神様が惑星を動かし続けているのであれば、天使を使おうと、他の方法を使おうと同じことです。それなら天使の仮説はいらないという主張です。

オッカム自身は、本当に必要な存在は神だけで、他はすべて不確定だと考えていたようですが、後にオッカムの思想を超えて広く使われるようになりました。オッカムが信じた神までもがオッカムの剃刀の対象になってしまいます。

オッカムの剃刀は否定ではない

オッカムの剃刀は、必要ない仮説は省くという考え方に過ぎません。論理的に必要ないものを切り捨てるだけです。

もしかしたら、実際に惑星を天使が動かしているのかもしれません。ましてや「天使などいない」という主張ではありません。

例えば、現在の科学理論には神様は出てきません。

これは、神様の存在を仮定する必要がないということで、神様がいないということを示すものではありません。

ラプラスの悪魔で知られる ”ピエールシモン・ラプラス” も ”ナポレオン” の「神のことが書かれていない」という言葉に「私には神という仮説は無用なのです」と答えました。

≫≫ラプラスの悪魔とは 未来は決定しているのか?意思によって変わるのか?

神様を仮定しなくても説明できるから、考慮していないだけです。

ですから、心情として「宇宙がこのような物理法則に従って動いていることは、とても偶然とは思えない。宇宙を設計した神様がいるはずだ」と考えている科学者がいてもいいのです。

逆に言えば、神様の存在を信じている人が「神様は必ずいるのだから、現代科学は間違いだ」と主張することも意味がありません。

現代科学は「神様がいる」「神様いない」というどちらの仮定もしていないからです。

相対性理論はエーテルを否定していない

科学的な例を挙げてみましょう。

光や電磁気現象では、それを伝えるエーテルというものが仮定されていました。

アインシュタインが、特殊相対性理論というエーテルを必要としない理論を発表しました。

これによって「相対性理論はエーテルの存在を否定した」と言われることがありますが、論理的にいえば不正確です。

「相対性理論にはエーテルの仮定が必要ない」のです。

「エーテルはあったとしても物理的には何の影響も与えない」という理論なので、必要のないエーテルという仮説を省いただけのことです。

オッカムの剃刀はどこまで適用するべきか

オッカムの剃刀は科学理論にも適用されましたが、万能ではありません。

どこまで適用すべきなのかは意見の分かれるところです。

オッカムの剃刀の拡大解釈

オッカムの剃刀は、科学においては「科学理論は仮定が少ない方が好ましい」とか「仮定が単純な方が好ましい」と言った意味合いで使われたりしています。

20世紀に科学理論とはどうあるべきか? という大論争があり、その文脈で語られたものです。

アドホックな仮説

アドホックな仮説とは、ある理論が反証されたときに、その反証を否定するために後から付け加えられる補助仮説のことです。

ある理論を組み立てたとしましょう。

調べていくと、その理論と合致しない現象がみつかったとします。

そのとき、その現象を説明するために新たな仮説を立てることをアドホックな仮説を建てたと呼びます。

自分の作った理論と実験値が合わない場合、合わせるために新たな仮説を付け加える、これを繰り返してけば、そのうち多くの現象を説明できる理論ができあがります。

その後、新たな現象が発見されたら、またそれに合わせて仮説を建てるだけです。

ただ、おそらく仮説の数は膨大なものになります。

これを科学理論と呼んでも良いものでしょうか?

ほとんどの人は、科学的な理論ではないという意見に賛成するでしょう。

線引問題

考える

このようなアドホックな疑似科学とまっとうな科学理論を区別する境界を決めることを線引問題といいます。

その基準のひとつとしてオッカムの剃刀が議論に登ったのです。

同じ現象を説明するのに、10個の仮説が必要な理論と3つの仮説で説明できる理論があれば、3つの仮説の理論の方がアドホックさ少ない、まっとうな理論に近いということです。

ここで「アドホックさが少ない」「まっとうな理論に近い」というあいまいな表現を使ったのには意味があります。

実は線引問題は、激論の末「きっちり分ける境界などない」ことが分かったのです。

ですから、オッカムの剃刀は、できるだけまっとうに近い理論を作るための指針のひとつと考えるべきでしょう。

オッカムの剃刀は厳格に使う必要はない

オッカムの剃刀は、あくまでも指針過ぎないのですから、厳格に適用する必要もありません。

あまりに酷いものを振り落とすくらいで、後は柔軟に使えばいいのです。

物理では、全く異なる仮定から導いた理論が、最終的には同じものになることがあります。

その場合、仮定の数を比べて、仮定が少ない方がいいとは一概に言い切れません。

仮定は少ないけども扱いにくいものと、仮定が多いけども使いやすいものがあれば、使いやすい方を選んだ方が便利です。

オッカムの剃刀を意識してみよう

オッカムの剃刀は、オッカムが神学者だったことを考えればわかるように、科学理論だけに適用できるものではありません。

というよりも、時代的に私たちがイメージする科学(ニュートン以降の現代科学)に対しての発言ではないことは明らかです。

「オッカムの剃刀」という言葉は、科学哲学の文脈で使われることが多いのですが、それに縛られるものではないのです。

私たちが「なぜだろう」と理由を探すとき、単純な理由から優先して考えた方がいいというのもオッカムの剃刀の応用例かもしれません。

考えられる理由は、可能性の低いものまで考慮するといくらでも増えてしまいます。

私たちは、知らず知らずのうちに、オッカムの剃刀を使って考えているのかもしれません。

何か仮説を立てる時には、オッカムの剃刀を思い出して、単純なものから考えることを意識してみてはいかがでしょう。

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