”コペルニクス的転回” とは、物事の見方がガラッと変わることを指して使われる言葉です。
これは、コペルニクスが唱えた地動説に由来するものですが、コペルニクスの地動説は、物事の見方が大きく変わった例として相応しいものだったのでしょうか?
それを考えるために、コペルニクスの地動説について簡単に説明してみます。
コペルニクス的転回
「コペルニクス的転回」という言葉は、有名な哲学者 ”イマヌエル・カント” が自分の哲学を表現するために使った言葉です。
コペルニクスが地動説を提唱してから200年も後のことです。
古代の地動説
紀元前の時代から、天動説が信じられてきましたが、地動説を唱える人がいなかったわけではありません。
特に古代ギリシャの天文学者 ”アリスタルコス” は、太陽が宇宙の中心にあって、地球は自転しながら太陽の周りを回っているという説を唱えました。
そして、水星、金星、地球、火星、木星、土星の順で太陽から離れているという惑星の配置まで示していました。
惑星は、逆行といって、反対に動くような複雑な動きをしますが、地動説では、その逆行を説明することができるという大きな利点があったのです。
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地動説の欠点
でも、地動説が広く信じられることはできませんでした。
その理由のひとつは、「地球が動いているのなら地球上のものが取り残されるはず」という反論に答えることができなかったことです。
真上に投げた石が、落ちてくる間に地球が動いてるのだから、同じ位置に落ちてくるのはおかしいという疑念です。
もうひとつの理由は、年周視差が観測されなかったことです。
地球が公転しているのなら、季節によって恒星が見える角度が違うはずなのに、それが観測されなかったのです。
年周視差
アリスタルコスは、「恒星は無限に遠いところにある」として、この問題を解決しようとしましたが、受け入れられることはありませんでした。
宇宙が地球と太陽の距離くらいの大きさだと信じられていた時代に、宇宙は無限に広いというのは突拍子もない主張だったのでしょう。
古代の天動説
古代の天動説では、地球を中心とした天球があり、その天球に恒星がちりばめられていると考えられていました。
これを恒星球と呼び、恒星球は1日に1回転します。
それとは別に太陽がある天球があり、恒星球より少し遅い速度で、恒星球に対して少し傾いて回転するとされていました。
問題は、惑星です。特に逆行問題をどう説明するのかが、天動説の課題でした。
周転円
惑星の軌道を説明するために「周転円」と言われるものが導入されます。
惑星は地球の周りを回転するだけでなく、自らも円運動しているという考えです。
周転円
これを取り入れることによって、逆行問題も説明できるようになりました。
プトレマイオスの宇宙
2世紀に活躍した ”クラウディオス・プトレマイオス” が天動説の体系をまとめます。
そこには周転円だけでなく、エカント、離心円というものが導入されています。
惑星は、地球を中心とするのではなく、地球と少しずれたところを中心とした離心円を回り、惑星が動く速度は、エカントと呼ばれる点からみて一定の速度になるというものです。
実際の観測データに合わせるために導入したのですが、かなり複雑です。
しかし、このプトレマイオスの宇宙は、正確に惑星の動きを計算でき、その後の運行を予想できるものでした。
その後、天体観測の精度が上がり、観測データとの差異が見つかると、周転円を新たに追加することで、精度を高めていったのです。
地動説では、ここまで正確に惑星の運行を説明することはできませんでした。
そのため、プトレマイオスの宇宙は星の運行を計算できる唯一のモデルとなり、長く信じられ続けました。
データと違いが見つかれば周転円を追加するというのは、現代的な視点からるすとアドホックな仮説です。
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周転円を次々に追加していけば、どんどん精度が上がっていくというのも事実です。
理系の人ならわかると思いますが、これはフーリエ変換に相当する操作なのでいくらでも精度を上げることができます。
コペルニクスの登場
ここでコペルニクスが登場します。
とは言ってもプトレマイオスから1400年も後のことです。
ちなみにコペルニクスは、アリスタルコスの地動説を知っていました。
それを復活させたのです。
※後にガリレオが、コペルニクスに対して「太陽中心説を復活させた」と称しています。
1年の長さ
コペルニクスが地動説を復活させた大きな理由は、1年の長さにあったようです。
当時は、1年の長さを365.25日とする、ユリウス暦が使われていました。
現在使われているグレゴリオ暦では、1年が365.2425日とされていて、それに合わせてうるう年が決められています。
ユリウス暦では、1年の長さが少し長いのです。
わずかな差に見えますが、コペルニクスの時代はユリウス暦が制定されて1000年以上経ち、ずれが大きくなっていました。
1年の長さが大きな関心事だった時代なのです。
プトレマイオスの天動説では、1年の意味が明確ではなく、その長さを計算することができません。
でも地動説なら、1年は地球が太陽の周りを1周する時間として明確に決めることができて、計算も可能です。
コペルニクスの宇宙
コペルニクスが唱えた宇宙はどんなものでしょう。
基本は、アリスタルコスが唱えた地動説です。
ただ、それだけだと、観測データと合いません。
そこで、プトレマイオスの宇宙と同様に、周転円を導入する必要がありました。
また、天球という恒星が存在する球体があること、全ての運動は円運動を基本とすることなど、プトレマイオスの宇宙をそのまま引き継いでいて、現在考えられている宇宙をは全く違うものです。
また、惑星の運行を計算する場合、プトレマイオスの宇宙に比べて計算が簡単になるわけではなく、精度が上がったわけでもありません。
「地球が動いているのなら地上の物体が取り残される」
「恒星の年周視差が観測されない」
といった、地動説の欠点を払しょくすることもできませんでした。
そして、コペルニクスが地動説を提唱しても、世の中の見方は変化しませんでした。
地球が動いていると信じる人はほとんどいなかったのです。
コペルニクス的転回は起きませんでした。
ただ、プトレマイオスの宇宙以外に、星の運行を計算できる当たらしいモデルを提示したことは大きな功績で、それに刺激される人たちが現れることになります。
地動説を信じた人たち
コペルニクスが亡くなってすぐに、ふたりの偉大な天文学者が生まれます。
”ガリレオ・ガリレイ” と ”ヨハネス・ケプラー” です。
このふたりは、コペルニクスの地動説に賛同しました。
ガリレオは実験という手法を持ち込んで、科学的なアプローチをしました。
ケプラーは、純粋にデータだけを信じて固定概念を払うというアプローチをしました。
それでも地動説が多くの人に受け入れられるようになったという訳ではありませんでした。
それには、このふたりの業績を受け継ぐ、もう一人の天才 ”アイザック・ニュートン” の登場が必要でした。
そして、ニュートンの理論によって、それまで信じされていた世界観が完全に覆されたのです。
≫≫天動説、地動説から新しい時代へ ガリレオとケプラーとニュートン
※ニュートンの理論になると、太陽が宇宙の中心という考えも払しょくされます。地動説の語源は「太陽中心説」ですが、太陽中心説まで覆すまさにコペルニクス的転回です。
コペルニクス的転回とは
コペルニクスの地動説は、アリスタルコスの説を復活させたもので、オリジナルではありません。
当時の常識にも縛られていて、私たちが考えているような宇宙とは全く違うものです。
そして、コペルニクスによって、世の中の見方が大きく変わるという影響もありませんでした。
1400年も信じ続けられたプトレマイオスの説と異なるものを表明して、1年の長さなどに意味づけをしたのは大きな功績ですが、「コペルニクス的転回」というほどの改革ではないように思えます。
しかし、その後の、ガリレオ、ケプラー、ニュートンと続く、大きな転換のきっかけになったことは間違いありません。
「コペルニクス的転回」を唱えたカントは、ニュートンより後の時代の人です。
カントは、この一連の大変革を表す象徴として、きっかけを作ったコペルニクスの名を使ったのではないでしょうか?
個人的にはそう思っています。